何で弘前はヒロサキになったの?
今日和!!new_rockですm(_ _)mペコリ
地名の由来って・・・皆様興味ありませんか??身近な地名の由来が伝説からだったり・・結構用意に連想出来たり様々だと思います。その中で何個かピックアップしてお伝えしちゃいます(^▽^)ノ
上の画像は、『弘前城築城400年祭』のマスコットキャラクターの『たか丸』君です。可愛いくて大好きなマスコットです♪こちらの画像は『弘前城築城400年祭』の公式HPよりDLが可能ですよ!
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/hirosaki400th/index.html
ではでは、まず・・やはり『弘前』は何故『ヒロサキ』と呼ばれるようになったのか。私の地元弘前からご紹介致します!!!
◆弘前の由来◆
『弘前』という名称が用いられたのは、寛永5年(1628年)・・今から382年前の8月20日から。それ以前は『高岡』と呼ばれていたそうです。また、弘前城の本丸入口や三ノ丸に大きな石があり、その石の数から『二ツ石』または『七ツ石』と称したとも言われていますが、はっきりとしないそうです。
『高岡』は高台とか鷹が多く生息していたからついたという説がありますが、『弘前』と改称された理由と由来は明らかではないそうです。南の「長崎」北の「広崎」とする説と、十三崎から松前までの海を「尾(び)ろ」と呼び、十三崎を「尾(び)ろヶ崎」と呼んでいたのをとって『弘前』とする説もあります。
『・・・・・・あれ、由来はっきりしないじゃない!』と思われましたよね!!!そうなんです(笑)諸説が幾つかあって、はっきりしない物も多いんです。ですが、はっきりしないからこそ想像力を掻き立てられたり・・・余計調べてみたくなりますよね!!
折角なので、他にも調べてみた地名をご紹介致します!!
<鰺ヶ沢町-あじがさわ->
古来諸説紛々として不明。一説では「鯵」や「鮫」が多く捕れたから、地名に用いられたと言われています。
<大鰐町-おおわにまち->
大鰐町の由来を調べると<3つの伝説>が浮かび上がってきます。
①湯魂石薬師堂の話 ②大日堂の開祖・円智上人にちなむ話。 ③往時の大旅館「加賀助」の先祖に関わる話。
大鰐が文献に“正式”に表れてくるのは、三代藩主「津軽信義」が慶安3年(1650年)正月に大鰐で藩士の年賀を受けたという記録があるそうです。
◆大鰐のいわれ⇒天平時代(729~748)に聖武天皇が阿闍羅山に北門鎮護の祈願所として、大安国寺を造成した。この「ダイアンコクジ」がしだいに津軽なまりになまって「オウアンジ」発音には自信の無い津軽人の事だから案外真実かもしれない・・・と書かれていました。
新町<-あらまち->
藩政時代は、江戸往来の街道筋から江戸町と言われていたそうです。「荒町」「阿羅町」と書いた時代もあったが、近代になって新町と書くようになったそうです。
藤崎町<-ふじさきまち->
昔は「藤崎村」、もうひと昔は「沼州村」と呼ばれていたらしいです。
蝦夷討伐の為、数万の軍勢を率いて当地に下り、神明の加護をうけて賊を退治した坂上田村麻呂が、そのお宮を建てた所が田舎郡沼州村で、それが現在の『鹿島神社』だそうです。その時、田村麻呂がお宮建立のしるしに、持っていた鞭を土に刺した所、やがて二抱えもある藤に成長したそうです。そこで、「藤咲村」→「藤越」→「藤先」→「藤崎」と呼称されたとの事でした。
鬼沢<-おにざわ->
鬼が開田に協力したという伝説があり、地名もこの伝説から生まれたものとみられます。その鬼を祭ったのが「鬼神社」で、奉納されている農機具も巨大なもので、鬼に相応しい物ばかりだそうです。
清水森<-しみずもり->
古い文献に「津軽に清水多しといえども、清水森村の十二ヶ清水にまさる水なし・・・」とあり、現在も清水が湧いている所が多い事が由来となっているようです。
本町<-ほんちょう->
一番最初に出来たとか、中心街などの意味を持ち、命名されたとみられている。町が作られたのは、慶安15年(1610)です。
紙漉町<-かみすきまち->
四代藩主「津軽信政」の時に、小沢の野元地区に住んでいた野元道元が、この地に紙渡所を置いて、紙を作った事から「紙渡町」と名付けられ・・そこから変化したとみられるそうです。
元寺町<-もとてらまち->
もと寺院街でした。ここにあったのが、今の新寺町の寺院でした。移ったのは慶安3年(1650)です。
鍛治町<-かじまち->
鍛治町の由来は、藩政時代から明治・大正と「鍛冶屋」の他、「桶屋」「銅細工師」「鋳物師」等の職人の町でありこの事からきています。現在は弘前の飲み屋街になっています。
鷹匠町<-たかじょうまち->
弘前でも数少ない町名が変わらなかった町の1つです。武士の他、鷹匠が居住していた所と伝えられている。
禰宜町<-ねぎまち->
禰宜とは神官の意味との事です。城の鬼門(東北)を守る為、津軽総鎮守の八幡宮や弘前神明宮などの門前町として、神職が住む所だったらしい。そこから禰宜町と呼称されるようになった。
代官町<-だいかんちょう->
代官屋敷など大半が武家屋敷であった事から。
容易に由来が創造出来たり、こんな伝説があってそこからきていたのかと驚いたり・・・・色々面白くないですか(^▽^)?皆様も時間があったら、古い文献を調べてみるのも如何でしょう??
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