魅力No.163


歴史探訪『津軽三十三観音巡礼』~一番札所:久渡寺(上)~

見上げよう 

 今日和、new_rockですm(_ _)m

 冬になる前に・・・津軽三十三観音巡礼レポートに挑戦いたします♪

 折角歴史ある仏閣や神社が多いのに、取り上げないと勿体無い!と思い、皆様も色々レポートされているようなので、少し渋めな切り口で攻めて行きたいと思います。※単なる趣味でもありますが・・・歴史、仏閣、神社、民間信仰や神話なんかも大好きです(^▽^)

 一番から三十三番まである観音様を辿る旅になりますが、その時の状況で順不同になるかと思いますので良しなに(^^;)後・・・レポートが結構長くなりますので、最後までお付き合いいただければ幸いです!

津軽三十三ヶ所観音霊場について

 津軽三十三ヶ所観音霊場は、江戸時代に始まったと伝えられています。藩庁によって制定されたのか、民衆が自主的に選んだのかは分かりませんが、俗説では三代藩主信義公(1619~1655)が津軽一統時における戦没者と郡中開拓に死んだ武士・農民を供養するために、御詠歌を自ら詠んだと言われています。

 津軽霊場には神社が随分多いんだなぁと不思議に思いますが、これは歴史的な背景があるのです。 

 観音様が人々を救う為にいろいろな姿に示現した話、高徳の僧になったり武将になったり父や母、果ては売春婦にまでも姿を変えて功徳を施した話が残されています。また観音様は「神」にも身を変じ「権現」と呼ばれて神社にも祀られました。津軽で見ますと「岩木三所権現」(阿弥陀如来-岩木山・観世音菩薩-厳鬼山・薬師如来-鳥海山)などです。

 難しい言葉で言えば「本地垂迹説」、仏様も神様も同じだということです。殊に観音様は神様同然と思い神社扱いされた観音堂も少なくなかったのです。これらの観音堂は寛政年間(1789~1801)頃から「飛龍宮」と呼ばれるようになりました。しかし「観音堂」が「飛龍宮」になろうが「観音」が「権現」と呼ばれようが、信者にとっては依然「観音様」であり、変わることなく霊場巡拝が続いていました。

 けれども明治維新によって、霊場は解体され大打撃を受けたのです。すなわち「神仏分離令」です。これは明治政府が「国家神道」をつくるための政策だったのですが、津軽では仏像を排除したり仏体を神体にかえて神社にしたり、または廃堂になったものは三百八十九寺堂もありました。

 観音霊場も純粋な寺堂八ヶ所を除き二十五ヶ所が神社になるか廃止させられてしまいました。このように長く続いた霊場も、本尊を失ったり堂舎を取り壊されたりと壊滅状態に陥りましたが、信仰厚い民衆はその存在を忘れず、ほどなく復興されました。しかし、元の場所に戻っても、今は神社になっているためにその境内の片隅を借りて再建したり、神社を新築した時に旧殿を元の観音堂に返してもらったり、神殿内にご神体と並んで安置されたりとさまざまなのです。

 この様な歴史的背景により、津軽の霊場は未だに「神仏同化」を色濃く残している特殊な霊場となっております。

参考・抜粋資料:毛髪刺繍と北前船のお寺 春光山 円覚寺 公式HP

http://www.engakuji.jp/junrei/kannon.html

『久渡寺の概要』

 久渡寺の創建は延暦年間(782~806)、阿闍羅山に建立されたのが始まりと伝えられています。当初興福寺と称していたそうですが荒廃し円知上人が小沢に移し寺号を小沢山観音院救慶寺と改称しました。その後再び荒廃しましたが戦国時代末期には後に津軽氏を称する大浦氏から庇護され慶長年中(1596~1615)に大浦為信が寛海和尚を招き中興開山し寺領100石を寄進しています。江戸時代に入ると藩主の祈願所として庇護され、寛政4年(1792)に火災で堂宇が焼失すると藩主の命で再建されています。又、久渡寺はイタコの習俗や、オシラサマ講などの民間信仰が盛んな寺院としても知られています。津軽三十三観音霊場一番札所。

参考:青森県歴史観光案内所

http://www.aotabi.com/index.html

 このオシラサマ講ですが、宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」は皆様ご存知かと思います。このオシラ様は油屋にやってくる様々な神の一人として、大根を擬人化した姿で登場しています。千尋と会っても別段驚きもせず、リンに代わって千尋が湯婆婆の所へ行くのに付き添ってあげる優しい神様でした。最後手拭振り回して喜んでいたような・・。

 久渡寺入口

『一番 聖観音護国山久渡寺(久渡寺)』

 久渡寺の石段に立ったのが、午前9:30頃でした。車で山門前の駐車場まで行き、新調した登山用のウェストポーチに2本の水を差し準備完了です。お参りだけじゃ味気無いかなぁと思い、山頂まで登ってしまおうと無謀にも挑戦です!標高663m、標高差639m!服装はいたって普通、登山ルックではありませんでした。

 来る途中で、お一人で巡礼されているお遍路さんがいらっしゃいました。このお遍路さん専用の服とアイテムですが、巡礼する際に必ず準備しなければいけない!ってわけではないそうです。ここ久渡寺はタイトルにあるように、一番札所になっていまして、お遍路さんの服やアイテム(杖等)も全て揃うとの事でした。 私は服を揃える所まではしませんが、巡礼の際に押してもらうハンコ帳はゲットしたいと思います。

 石段前には、2匹の狛犬がお出迎え!

 久渡寺の石段は227段、狛犬が2匹出迎えてくれます!登り始めは順調だったのですが・・日々の不摂生がたたって中段あたりで息切れしはじめました・・・orz のんびり上って途中途中、周りの景色を見ながらマイナスイオンを摂取していました。周りは老杉で、いつの時代からここに立っているのかと・・とても不思議な感覚に陥ります。高々とそびえ立つ老杉が残暑の日差しを遮り、なんとも涼しげな空気でした。

 マイナスイオン発生中

段差がきついよ石段さん(;ω;)

 この石段・・結構高さがあり、お年寄りにはきついんじゃないかなぁと思っていたのですが・・・結構ヒョイヒョイ登っていかれます・・・。段差を画像に残そうと何枚か撮影しましたが、ちょっとわかり辛いですね(^^;)既に何人か人が参拝していて、石段を上っている途中でご家族とすれ違い『おはようございます!』と挨拶を交わし、再度登り始めました。登山する時もそうですが、すれ違う時に交わす何気ない挨拶や会話がとても楽しいですよね(^▽^)

自衛隊の皆さんがトレーニングで使うこの石段を登り終えたら・・

やっと到着! 

観音堂

 息も絶え絶えに(笑)登り切った先には、中央に聖観音堂。そのすぐ後ろには奥の院。この奥の院には初代観音様が祭られていて、一般公開はしていません。残念(><)左手には本堂、右手には鶴亀延命堂があります。 この鶴亀延命堂は、本堂を移築した時に掘り起こされた大石が納められているそうです。

経典を読む観音様

 本堂側に3~4m?くらいの大きく白い観音様が立っております。

鳥居の残骸

この観音様を過ぎると、朽ち果てて壊れてしまった鳥居の残骸が横たわっています。

苔が生え、残骸だとしてもなんだか歴史を感じ、元々あった位置を想像して写真を撮ってみました。

鳥居があったであろう空間 

 写真下の方に鳥居の根本がまだ残ってますよね(^v^)ここを過ぎると道が二手に分かれています。そして、方向音痴の私は毎回の如く正解とは逆の道に迷い込みます・・(;;)

分かれ道

 写真がちょっとわかり辛いですね(^^;)ここ道が分かれてるんですよーー!

迷った先には・・・

 道なりに石仏が並ぶ小道に入り込みました。一つ一つ見て回り、道がどんどん細くなります。途中で大きな木があり、小道に並ぶ石仏と相まってとても神秘的。ただ進むにつれ上に登っている感覚が無くなってきました。平行移動している!?

道なりの点在する石仏

 案の定・・・行き止まりです!!!ちょっとした崖になり、眼下には沢山の地蔵群がありました。

地蔵群

 ちょっと怖かったですね(^^;)この地蔵群は、観音堂の右隣奥になりまして・・石仏小道を歩いて行くと丁度斜め上に出られるようです。この小道、人一人通れるくらいの幅しかなくて、すれ違うのは大変な感じでした。少々ビビッてしまった私は、先ほどの分岐点まで早足で戻るのでした・・orz

久渡寺観世音の起源

 久渡寺観世音の起源は、延暦年間(782―806)、三千坊の一寺として阿闍羅山(大鰐町)に建立された補陀洛(ふだらく)寺にさかのぼります。また、久渡寺山は坂上田村麻呂が建てた阿闍羅千坊のひとつともいわれ、その古宮と伝わる跡がいまもあるそうです。

 くだって建久2年(1191)、唐僧・円知上人が津軽に来て、阿闍羅三千坊が荒れ果てているのを見て、不動尊を平川市・碇ケ関古懸に、大日尊を大鰐町・蔵館に、当時小沢山といわれていたこの地に観世音を遷(うつ)して、布教の本拠地としたそうです。いま、久渡寺にある聖観音像は、円知が阿闍羅山補陀洛寺から遷座したものであり、寺も最初は「小沢山救度(くど)寺」と称していました。

 そして慶長年中(1596―1615)、大浦為信が寺領を寄進し、「護国山観音院」と改称した。津軽一統を志す為信が国を守る山として名を変えたのです。元和元年(1615)、二代藩主信牧が堂舎を再建して、祈願所とし・・この時、観音院を「久渡寺」と改めています。

久渡寺にまつわる暗い史話

 奥の院から5分ほど山道を行くと国見坂に着きます。藩祖為信が親友・盛岡金吾信元を暗殺した場所だそうです。

 為信は曾祖父を同じくする一族の信元と眼下に広がる津軽野を望み「眼下をすべて支配しよう。その暁にはお前に半分やる」と約束しました。そして、2人は協力しあい国盗りに成功したのであります。しかし、為信は領地を分かつのを惜しみ、家来・鍛冶仁右衛門を放って信元を暗殺してしまいました。

 しかし、盛岡家は廃絶することなく、津軽氏一門として家老・用人職を勤めています。森岡氏(盛岡改め)の知行地は小沢村にあって久渡寺とかかわり深く、同寺が秘蔵する円山応挙作と伝わる「幽霊の絵」は、金吾から五世あとの森岡主膳元徳が奉納し、モデルはその娘であったといわれています。

森岡 信元(wikiより抜粋)

 森岡信元(もりおか のぶもと、天文15年(1546年) - 慶長5年(1600年))は、戦国時代の武将。津軽氏の重臣。父・森岡信治は大浦為則の後見役。父の後を継いで、為則の婿養子・大浦為信(津軽為信)に仕えた。通称を森岡 金吾ともいう。

  天正3年(1575年)の大光寺城攻めでは泥に馬の足を取られた為信の窮地を救い、天正7年(1579年)の茶臼館戦でも夜襲をかけて敵勢を壊走させるなど、為信の戦国大名としての独立に大いに貢献し、三老の一人にまで列せられた。しかし後に為信と対立し、慶長5年(1600年)に梶仁右衛門によって久渡寺で暗殺された。 

次回、登頂へと至る道!

 石段の途中に、さとちゃんさんのレポにあった手形があるのですが・・・石段の脅威にさらされて息も絶え絶えで、登りきる事しか頭になくて見逃しました(;Д;)ヤッチマッタ

 これは・・再度訪問フラグが立ちました!!!夜景が綺麗に見えるよって教えてもらった国見台の展望台には行けなかったので・・また行ってみようかと思っています。

 既にかなり長文になっていますので、ここでいったん区切ります!!ちと解説がメインになっていますが、次回は登山中の綺麗な景観をお見せ致しますね!

 一番最初の画像は、登山道入り口到着前のお気に入りの一枚です(^▽^)ノ

 熱い日差しを遮る沢山の葉が絨毯の様に広がって、時折零れる光がとても綺麗です。登山する時は遠くを見るのも良いですが、頭上を見上げてみて下さい。逆行がとても美しいアクセントになりますよ!

 では、次回久渡寺レポート登頂から下山までの「登頂へと至る道・下山」でお会い致しましょう!!

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