魅力No.273


サザエの神様??

 今日和!new_rockです!今回は『栄螺堂』をご紹介いたします(^▽^)♪さて、この栄螺堂ですが別にサザエの神様を祭っている建物ではありませんです(笑)

『栄螺堂とは?』

 この栄螺堂は、禅林街の門をくぐり直ぐ左手にある小さな建築物です。天保10年(1839)弘前の豪商中田嘉平衛が寄進いたしました。八角形の内部は右回りの回廊と直進階段を併用して昇降。東北では2つだけしかなく大変貴重なものです。

 江戸時代後期の特異な建築様式の仏堂です。堂内は回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっています。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれています。

 このような堂は江戸後期に東北~関東各地の寺院に建てられました。現存するものとしては、二重らせん構造をもつ福島県会津若松市の旧正宗寺三匝堂(きゅうしょうそうじさんそうどう)のほか、長勝寺(青森県弘前市)、長禅寺(茨城県取手市)、曹源寺(群馬県太田市)、成身院(埼玉県児玉町)、の西新井大師(總持寺・東京都足立区)などの堂があります。

  

『天保10年』

 天保は文政の後、弘化の前にあたります(1830年~1843年)

 この時代の天皇は第120代 仁孝天皇。皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた方です。 江戸幕府将軍は第11代征夷大将軍 徳川家斉、第12代征夷大将軍 徳川家慶の時代です。徳川家慶は、『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ)や『大奥』(2003年、フジテレビ)でも登場しますので、想像しやすいですね(^▽^)♪ 

そして、この天保10年に起きた歴史的事件は、蛮社の獄です。

『蛮社の獄(ばんしゃのごく)』

 1839年(天保10年)5月に起きた言論弾圧事件。

 天保年間には江戸で蘭学が隆盛し新知識の研究と交換をする機運が高まり、医療をもっぱらとする蘭方医とは別個に、一つの潮流をなしていました。渡辺崋山はそのリーダー格であり、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者でありました。この潮流は旧来の国学者たちからは蔑みをこめて「蛮社」(南蛮のグループ)と呼ばれていたそうです。後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府の文教部門を代々司る林家の出身でありました。

 幕府は儒学の中でも朱子学のみを正統の学問とし他の学説を排除しましたが、林家はその官学主義の象徴とも言える存在でもありました。儒学でさえ朱子学以外は認めず、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる林一門にとり、蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また、後述するように、林家の門人でありながら蘭学にかぶれさらに多数の儒者を蘭学に引き込む崋山に対しても同様の感情が生まれていたそうです。

 なお著名な「尚歯会」は、崋山の友人でもあった紀州藩儒・遠藤勝助が、救荒作物や海防について知識交換するために作ったサークルでした。崋山・長英・三英はこのサークルの常連であったために「蛮社=尚歯会」「蛮社の獄=尚歯会への弾圧」というイメージが後世生まれました。しかし陥れの対象として狙われた者のうち、崋山と並んで最重要人物であった江川英龍はこの会の常連ではなく、また長英とは面識がありませんでした。さらに会の主宰であった遠藤勝助は鳥居耀蔵の告発状の中に最初から名があがっておらず、弾圧を免れています。

Wikiより抜粋

 このように歴史と照らし合わせると、凄い時間の流れを感じますよね(@@)禅林街は重要文化財の長勝寺が有名ですが・・もう1つ素晴らしい建築物『栄螺堂』があります!

 杉並木や寺町ならではの雰囲気も素敵ですので、お越しの際には是非『栄螺堂』も見て行って下さいね!!

青森県弘前市西茂森

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