こちらの方は、津軽藩藩祖津軽為信公でございまする。
戦国武将らしく凛々しい御姿は、権謀術数・智謀の甲冑姿で登場でございまする。
この方が居なければ、江戸時代の津軽藩、明治の初期の弘前藩も存在しないのでございまする。
つまり、現在の弘前市の母体を約400年前作った御方でございまする。
元は南部氏家中として大浦為信と名乗っておいでございました。津軽地方へ出仕していたおり元亀2年(1571年)5月(天正9年(1581年)説もある)南部家一族の石川高信の守る石川城を突如として電撃攻略し、津軽地方一円に勢力を築き一代で大名になったお方でございまする
天運と時勢を見通す、慧眼の持ち主にございまする。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉に謁見して本領安堵された際、津軽為信と改名いたしておりまする。
武功だけではなく、時の権力者との折衝・外交にも力を発揮いたした御方にございまする。
長らく戦国時代の下剋上の人と思われてきましたが、当時の南部氏は豪族の連合体であり三戸南部が他の南部緒家と主従関係にあったことはなく、大浦氏も、三戸氏や他豪族と同じく南部氏の一族であったことから、為信公の下剋上も実際は戦国時代でよくあった同族同士の争いに過ぎないそうにございまする。
決して、決して私欲から南部氏を下剋上いたした訳ではないに違いまする。
私の心得違いにございまする。
へへぇ~、アッシなんかは一足軽でございまする~。お館さぁまぁ~
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