魅力No.1381


炎立つ

今日和!new_rockです!

タイトルの『炎立つ』って見ると、歴史好き・大河ドラマ好きの方はピンと来るかもしれませんが、平成5年に放送された大河ドラマ『炎立つ』の十三湖ロケの記念と、安藤氏の文化を顕彰するシンボル塔として建立された『安藤文化顕彰シンボル塔』をご紹介します。

   

安藤文化顕彰シンボル塔

 

平安時代、みちのく王国の実現を目指し黄金の文化を築いた人達を主人公にしたNHK大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』の十三湊(とさみなと)※十三湖※ロケを記念し、中世の頃、奥州十三湊を拠点に栄華を極めた津軽の豪族、日本将軍(ひのもとしょうぐん)安藤氏が山王日枝大社【滋賀県大津市】から移入し建立したと伝承される「山王造り京風二重鳥居」を素材として平成5年3月、安藤氏の文化を顕彰するシンボル塔として建立したものです。

     

安藤氏について

     

安藤氏の出自については判然としません。一説では、前九年の役(1051-62年)で滅ぼされた安倍氏の一族・高星丸が祖とされ、当初は藤崎城を拠点に津軽地方を支配していましたが、13世紀初頭に十三湊に支配拠点を移しました。いずれにせよ平安末期から、その存在は史書に現れるようになり、奥州藤原氏が奥羽を支配した頃にも、津軽六郡を統治下においていたとされます。鎌倉幕府からは承久4(1222)年に「蝦夷管領」に任じられ、津軽外三郡を支配し、この頃から水軍を駆使し蝦夷・日本海交易で莫大な経済権益を得ていたとされます。正中2(1325)年には「蝦夷管領職」の争いから「蝦夷大乱」(安藤氏の内訌)が起こり、また興国元(1340)年の大津波で十三湊は壊滅的被害を受け、以降安藤氏は衰退したと考えられます。仔細は不明ですが、室町期に安藤氏は二家に分裂し、「上国家」は出羽男鹿島・出羽湊を領し湊安東氏を称しました。また「下国家」は北進を進める南部氏に圧迫され、安藤盛季は嘉吉3(1443)年に蝦夷地に追い落とされ、以降数度にわたり康季・義季・政季は津軽回復をめざし津軽に攻め入りますが、その都度南部氏に拒まれました。その後、政季は出羽檜山郡を拠点に檜山安東氏を称し津軽回復をめざしました。

北の城塞サイト様より

    

安藤氏と十三湊

    

安藤氏の拠点として栄えた中世港湾都市十三湊は、主要な港湾「三津七湊」に挙げられるほど著名な湊でしたが、安藤氏嫡流家が十三湊に居を構えたのは14世紀後半以降のようです。その後、安藤盛季・康季の時代に十三湊は最も繁栄したらしく、室町将軍足利義量に鷲羽・海虎皮などの北方交易品を献上しています。ただ、その栄華も束の間で、安藤氏は勢力を拡大していた南部氏との合戦に敗れ、十三湊を捨てて蝦夷島(北海道)へ撤退せざるをえませんでした。一時、十三湊への復帰に成功したものの、10年ほどで再び南部氏に攻め落とされ、またもや蝦夷島へと撤退します。この後、安藤氏は二度と十三湊へ戻ることはありませんでした。

青森県庁HPより

     

この安藤顕彰シンボル塔から、『山王坊遺跡』や『17札所:春比内観音堂』、『古舘遺跡公園』にも行けますよ!それと、途中では『岩井牧場』で放牧されている牛達にガン見されます(笑)めっちゃ見られます(゜゜ )ジー・・・

ではでは、次は『山王坊遺跡』をご紹介いたします♪

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