魅力No.748


津軽為信公に仕えた名軍師の眠る寺~光明山誓願寺


弘前市新町の浄土宗光明山誓願寺は、院号を無量院といい、慶長元年(一五九六)に旧平賀町(現在の平川市)の大光寺に創建されたと伝わっています。現在の地に移転したのは、元和元年(一六一五)。弘前城の西の鎮護としてこの地に移されたとされています。
この由緒ある誓願寺ですが、弘前の地に移転して以後、四度の火事に見舞われるという災難のため、現在ある本堂などの建物は比較的新しい年代のもとのなります。
しかし、唯一火災により失われることなく、今も往時と変わらぬ姿を見せるのが、この誓願寺山門です。
こけら葺の重層四脚門で高さは六・九メートル。正面に切妻破風を配置し、少しも小さく感じさせない量感あふれる力作とされています。さらに桃山時代の手法の中に、室町時代の様式もみられ、地方色豊かな建築物として重要文化財に指定されています。
こちらは、山門を境内の中から見たところ。この山門は、またの名を鶴亀門とも呼ばれています。その由来は、屋根の軒下に鶴と亀の意匠が彫り込まれていることから。
ちなみに、現在(二〇一〇年十月二十二日~十一月七日)弘前公園にて開催中の「弘前城 菊と紅葉まつり」では、植物園北側入り口に、この山門を模したゲートが立っています。
そしてこのゲートにも、しっかり鶴と亀がしつらえられています。
この辺りもしっかり、チェックしてみて下さい。

さて、この誓願寺の見どころがもう一つ、あります。それは、弘前藩初代藩主、津軽為信に仕えた名軍師、沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)の墓がある、ということです。

生年は不明、没年は慶長十七年(一六一三)とされるこの人物は、上野国(現在の群馬県)出身で、名前は祐光(すけみつ)といいます。戦国武将の細川藤孝(後の肥後熊本藩初代藩主細川忠興の父)に仕えましたが、浪人として出奔し、名を面松斎と改めて津軽の地に流れ、永禄十一年(一五六八)に為信に仕官したとされています。
面松斎は天文・易学(占い)に通じていたため、軍師として登用されました。以後、為信による津軽統一戦に従軍し、巧みな策略をめぐらして大きな功績を挙げたといいます。
(津軽為信の事績については、BANBAさんによるこちらのレポートをご覧ください)

沼田面松斎の功績は、これだけにとどまりません。津軽統一を成した後の為信は、それまでの居城を変えて新たに津軽平野の何処かの地に城を築くことにしました。そして、鷹岡(現在の弘前)こそ風水の面からみてもっともふさわしいとして、場所を選定し為信に進めた人物こそ、面松斎その人だったのです。すなわち、来年築城400年祭を迎える弘前城の生みの親は、この面松斎であったと言っても過言ではないのです。
さらに面松斎は、徳川家の相談役として大きな影響力を持っていた天海上人とも親しかったといい、江戸幕府成立後の徳川家と津軽家の親密な関係※を築くのにも、この面松斎の果した力が大きかったともされています。
(※ 徳川家康は自分の養女を津軽家に嫁がせ姻戚関係を結んでいます)

このように、津軽の歴史に大きな足跡を残した面松斎の功績をたたえ、彼の死後に二代藩主信牧(のぶひら)はここ、誓願寺に彼を葬ったのでした。その際に贈られた戒名は、清光院殿面松斎大居士

院殿大居士の号は、本来は藩主にしか許されない格式の高いものであり、これが許されたということからも、面松斎がいかに津軽家にとって重要な人物であるかがお分かり頂けるのではないでしょうか。

以上、地元弘前の人でもあまり知られていない、津軽の歴史トリビアをお送りいたしました。
皆さま、来年の弘前城築城400年祭にあたってはぜひ、沼田面松斎の功績を偲びに、誓願寺へお越し下さい。

浄土宗光明山誓願寺
青森県弘前市新町247
tel:0172-34-5532
拝観時間:9時~15時30分(12~3月は~15時)
拝観料:100円
門前に駐車スペースあり

青森県弘前市大字新町247

コメント一覧

こちらから魅力にコメントができます。

CAPTCHA