この方は、高照神社文化財の解説員、小嶋義憲さん。高照神社の、そして近世以降の津軽の歴史なら、何でも知ってる物知り博士さまでございます。
高照神社とは
そもそも高照神社とは何か。この神社は、岩木山の南東、百沢温泉の近くに鎮座しております。その縁起は詳らかではありませんが、古くから春日四神と呼ばれる神様を祀る小さな社があったと言われております。そしてこの地に、今の残る壮麗な社殿が築かれるきっかけをつくったのが、弘前藩第四代藩主、津軽信政公(一六四六~一七一〇)でございます。
信政公は弘前藩きっての名君と名高い殿さまで、新田開発・治水工事・植林事業・藩庁日記の開始・検地の復活(太閤豊臣秀吉時代以来の検地であったそうな)など、様々な実績を残しておられますが、特に日本各地から職人を津軽の地に招き産業の活発化を図り、その中から、あの津軽塗も生まれた、ということは特筆に値するでしょう。
さて、この信政公ですが、神道の一派である吉川神道という教えを受け、その奥義を伝授しております。吉川神道の奥義を伝授されたのは、江戸時代の全国の藩主の中でも、会津藩初代藩主、保科正之(徳川家光の異母弟)と信政公の二名のみとされております。かかる信政公は、自分の廟所をこの地にせよ、と遺言して亡くなりました。そして五代藩主、信寿がその遺言に則って築いたのが、現在の高照神社(創建当時の名は「高照霊社」)というわけでございます。
高照神社は、鳥居から本殿までが東西の軸の上に配置されており、これは吉川神道の教えに従った構成で、日本全国でもここだけにしか見られないという、極めて独特な神社でもあります。
二〇〇六年七月には、本社の社殿八棟と墓二基が、国の重要文化財の指定を受ける運びとなりました。
弘前藩三〇〇年の歴史が眠る
……と、偉そうにここまで高説を述べてまいりましたが、ほとんどは、冒頭でご紹介した小嶋さんからの受け売りであります、ハイ。実を申せばこのワタシ、津軽の殿様を祀った神社がある、程度の知識でゆ~みんと一緒に高照神社を訪れただけだったのです。鳥居をくぐってすぐの「宝物殿」という建物に、興味本位で入ってみたところ、中にいらっしゃったのが小嶋さん。
「あなたたちは何処からいらっしゃいましたか」と尋ねられ、実はコレコレこういうわけで、地域の魅力を探しております、と伝えると
「そういうわけなら、ここは絶対に知っておかないといけません。ここは、津軽の正倉院です。弘前藩の歴史が、ここに眠っているのですから」とおっしゃり、懇切丁寧に、神社の歴史から、宝物殿に陳列されている数々のお宝にまつわるこぼれ話を紹介して頂きました。
この宝物殿には、津軽家初代為信が豊臣秀吉から拝領されたという名刀「友成の太刀」(平安末期~鎌倉初期の作)をはじめ、為信の影武者が使用したという槍や、信政ゆかりの甲冑・馬具、その他、日本でも珍しい、他藩の城や城下町についての詳細な地図など、貴重なものがいっぱいです。小嶋さんがおっしゃる「津軽の正倉院」という言葉の意味が、よくわかります。
しかし。残念ながら、宝物殿の詳細は、写真ではお見せできません。なぜかと言うと、こちら、以前から何度か泥棒の侵入に逢いかけたことがあるため、あまり外部にその貴重な宝を宣伝してはいけない、というお達しが、お偉いさんの方から
出ているのだそうな。ちなみにこちらが、宝物殿の分厚い扉ですが
拡大すると、錠前の左の部分が歪んでいるのがお分かり頂けるでしょうか。
これこそ、賊が押し入りかけた証拠でアリマス。
あとはその目で見てちょうだい
てなわけで、実際に津軽の歴史をその目で見たい方は、ぜひ高照神社にお越しください。宝物殿の拝観料は300円、火曜定休でございます。小嶋さんはいつもいらっしゃるわけではないそうですが、その姿をお見かけになったら、声をかけてみて下さい。気さくに、そして熱~~~~く、津軽の歴史を語って頂けますぞ。
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