魅力No.1686


源義経の白銀の尊像(第19番札所)

今日和!new_rockです(^▽^)

日本史大好きな方も、そうでない方も皆ご存知の『源義経』!!

この義経の伝説が残るここ、三厩にあります第19番札所をご紹介です!

第19番札所

龍馬山 義経寺

 ぎけいじ

狛犬の表情が愛くるしいのです(笑)義経寺の境内から見える海がなんとも素敵♪

夏に足を運ぶと良いかも!日差しは暑いだろうけど、風が吹けば爽快でしょうね!天気が良ければ北海道の渡島半島まで見えるそうですよ!!!

源義経の伝説

兄源頼朝に追われた義経は、岩手県平泉高館を後に蝦夷地に逃れようと、この地に辿り着きました。津軽海峡は風が吹き、浪が荒れ狂い渡る事が出来ません。そこで、海辺の大岩の上で渡海の祈願をしたところ、白髪の老人が現れ『三頭の龍馬』を授け、無事蝦夷の地に渡る事が出来たと言い伝えられています。

ではまず、山門から順番にご紹介しますね(^O^)/

  

笹竜胆の紋章が彫りこまれている山門をくぐり

 

傾斜の急な階段を登ると目指す『義経寺』に到着です!!ちなみに、右写真の奥のこんもりとした緑は『厩石』です。その説明は後程(^▽^)時折聳え立つ木を見上げつつ・・・

はいっ無事到着!!!

 

仁王門をくぐる前に、ちゃんと清めてから~!

龍の上を見上げると、何やら説明が書かれておりました。

 

水屋建物の由来

この建物は当山第3代住職でありました小鹿麟導和尚の時代、大正13年に修築した当時としては誠に珍しい立派な山門であったそうです。その時76歳の高齢で、当村在住の名工成田七五郎棟梁が唯1人、黙々として工作に励みこれを狻工せしめたという言い伝えが残っております。寔に重厚簡素な作に70余年も親しんできた山門を末永く保存すべきものとして、平成12年、仁王門の新築にあたりこの水屋に移設したものである。

平成12年8月 龍馬山義経寺

このように大事に保存・保管してくれると、後の世の人々にも当時の空気に触れる事が出来ますね。歴史あるものは本当に大事に後世に残して頂きたいと、切に願います!!皆さんも見上げてみてね!笹竜胆見つけてみてね(笑)

では、仁王門くぐらせていただきやす!

 

門をくぐりますとまずは観音堂があり、右手に弁財天堂と観音石像と釣鐘があります。左手に金毘羅大神社殿と売店、奥に義経寺本堂があります。売店では急な階段を登ってきた参拝者に、無料でお茶を提供していますよ!ご住職が売店にいる事もあるのでお話聞いたりも出来ますし、お茶を提供してくれている所も椅子がありますので、参拝に来た方と世間話したりと・・・・・・優しい空間になっていますよ!

この義経寺に行くには、義経海浜公園経由ルートとあじさいロードから義経寺の上(敷地内駐車場)に出るルート二種類ありますよ!ここで余談ですが・・・。

昔友人と竜飛岬まで夏にドライブした事がありまして、この時初めて義経寺に足を運びました。義経海浜公園に車を停めて歩いて行ったのですが・・・どこをどうしたらあの道になったのか・・・。義経寺のに向かってただ道をまっすぐ歩けば良かったのに、龍馬山の裏に伸びる急な階段が見えたのです。あれが正規ルートと勘違いし、畑の畦道を抜け階段を登り境内に入れず回り道をし、上の駐車場に到達しました・・・。この時ご住職に正しいルートを教えてもらい、友人と爆笑したのを覚えています。この経験が生かせました(笑)今回はすんなり到着出来ましたよ♪

さて、お次はこちらです。

 

『燈明の松』の由来

ここに観音堂開山当初からあったと思われる樹齢300有余念の松の大木が2本立っていました。厳然と2本並んで立っていたので夫婦松とも呼ばれ観音様に参詣される人々をお祓いでもするように、又見守る様なかたちでしたので大変敬い、親しまれ有名な松となっていました。

昔は沖往く船の格好の目印であり、こずえが後光を差したように輝き、嵐の中彷徨う船を港に導きいれたという言い伝えが『燈明の松』の名前の由来であります。2本とも樹高22米・幹の周囲約3.7米あり根元から十数米まで枝も無くスラリとした姿は崇高そのものでした。

昭和56年2月18日、青森県環境指標植物に指定されましたが、落雷が原因となり枯れてしまったので村民や地域の方々に惜しまれながらも、平成10年に伐採しました。

※龍馬山 義経寺

聳え立つ2本の『燈明の杉』を生で拝んでみたかった・・・。自然には勝てません(>_<。)

義経寺の創建

義経が祈願したと言われている念持仏は後に、僧・円空が発見し、観音像を刻み念持仏を胎内に納め、草庵に安置したという。これが龍馬山・義経寺のはじまりとの事です。

円空が刻んだ聖観世音は寛文7年(1667)の銘があり、現在義経寺観音堂に奉安されています。当初観音堂は参道登り口付近にある厩石の麓にありましたが、安政2年(1855)現在地へと移転されたそうです。

堂内に安置されている聖観世音ですが、昭和38年6月に県の重要文化財に指定されています。ですが、義経伝説にちなんだ白銀の尊像(胎内仏)は見られないようです。やはり伝説と現実は違うんですね(^_^;)でも、それもまた歴史ロマンですよね!伝説の『白銀の尊像』見たさに、タイトルにしてみました(笑)

義経寺本堂脇にポツンと置かれていた鐘。何故ここにあるのか聞きたかったんですが、巡礼の団体がいらっしゃってその対応に忙しそうだったので諦めました。またドライブがてら行けばいいのだぁぁぁ!!!

 

三厩の由来

この言い伝えから、三頭の龍馬が繋がれていた大岩を『厩石』と呼ぶようになり、三厩(三馬屋)の由来となりました。

厩石の由来

文治5年(1189年)今から822年前、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源の義経は、館で火をかけ自刃したのが歴史の通説ですが……実は義経は生きていた!(←ロマンですな!)

藤原秀衡の遺書(危難が身に迫るような事があったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり、北を目指してこの地に辿り着きました。

近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡る事が出来ません。そこで義経は海岸の奇岩上に座って、三日三晩、日頃から信仰する身代の観世音を安置し、波風を鎮め渡海出来るようにと一心に祈願しました。

丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、“三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るが良い。”と言って消えたそうです。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれていて、海上は鏡の様に静まり、義経は無事に蝦夷が島に渡る事が出来ました。

それから、この岩を厩石・この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになったそうです。

他には、義経の武具からできたという鎧島や甲岩なんかもあります。

※厩石案内碑より参照掲載

ご住職に伺った所、昔はこの『厩石』まで水があったみたいです。今は『厩石』付近は綺麗な遊歩道の様になっていて、ある程度のスペースを挟んで海になっていますよ!随分海岸が離れましたね・・・。義経寺に行く時は下のルートはどうなっていたんだろう・・・見てみたかったなぁ!

 

★左:源義経龍神塔 ★右;静御前龍神塔

静御前も一緒にこの地に逃れて来たってのは良い伝説ですね!

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

兄頼朝の前で舞った後、義経を追いかけたんでしょうか?

三厩村から外ヶ浜町へ

1889年(明治22年)には明治憲法下で町村制が施行され、今別外六ヶ所村から増川・宇鉄両村を大字として独立し、三厩村が誕生したそうです。以後明治・大正・昭和・平成と、長い年月が流れ幾多の歴史が刻まれてきました。

そして今、三厩村は116年の歴史に幕を閉じ、平成17年3月28日蟹田町・平館村と合併し、外ヶ浜町として生まれ変わり新たなる歴史の幕開けを迎えました。

※記念碑より参照掲載

 

松前街道終点の碑

「松前街道」とは、江戸時代、松前藩士が参勤交代としてこの街道を通ったことから呼ばれるようになった名前です。

義経北方伝説が残る場所 

義経の伝説は青森県に結構残っています。

魅力No.1347 ロマンな義経海浜公園

魅力No.1570 義経北方伝説を追え③舘越山

魅力No.725 義経北方伝説を追え②三嶋神社

魅力No.610 義経北方伝説を追え①熊野神社

ではでは、最後に恒例のご詠歌をご紹介!

    

陸奥のいわれをここに来て三馬屋 波打ち際に駒ぞ勇める

     

では次回『第20番札所』にてお会い致しましょう!

青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩家ノ上76

1:久渡寺() 2:多賀神社 3:聞求寺 4:南貞院 5:十腰内観音堂 

6:湯舟観音堂 7:北浮田弘誓閣観音堂 8:日照田観音 9:見入山観音堂

10:円覚寺 11:下相野観音堂 12:蓮川観音堂 13:川倉芦野堂

14:弘誓寺観音堂 15:薄市観音堂 16:今泉観音堂 17:春日内観音堂

18:海満寺

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