魅力No.1708


満願成就『津軽三十三観音霊場巡り』最終回!(第33番札所)

遂に最終回!ここまでお付き合い下さいまして、本当に有難うございました!お気楽観音霊場の旅、今回のレポートで終了です。

ではでは、最後の……

第33番札所

普門院(山観)

 

実は、ここ普門院もとい山観(やまかん)ですが、実家からとても近く、幼少の頃は宵宮によく通ったもんです。夏の始まりは此処、『山観の宵宮』からって感じでした。まさか、津軽三十三観音霊場の最後を飾る所だとは(笑)

 

ここから、露店が並び奥の普門院の階段へと賑わいます。

宵宮以外はとても静かな住宅街、禅林街へすぐ抜けられるので愛犬の散歩コースでもあります。勿論境内とかにはわんちゃんを連れて入っちゃいけませんよ(笑)立札もちゃんとあるので守らなあかん!

 

冬場は水が氷るの為か、閉じられていました。津軽ならではの光景の1つではないでしょうか(笑)とても静かな境内を歩き、観音様にお参りをしました。「最後まで来る事が出来ました、ありがとうございました!」と、感謝とお礼を込めつつ、皆様の健康と震災からの早い復興を願ってきました。 

昔も、巡礼に行けない人は行く人に、霊場の土を持って来てもらったりしたそうです。及ばずながら、私も日本頑張れ!って気持ちでお参りさせてもらいました(^▽^)

保存樹林

山観普門院 杉林

  

杉を主体とした山観の森は、長く市民に親しまれてきた緑として、また宗教的雰囲気を醸し出す緑としても極めて貴重で、後世に伝えて行かなければならない貴重な文化財の一部でもある。 ※弘前市※

調べていたら、面白い記事がありましたのでご紹介。

◆ふもんいんの意味◆

禅林街の全昌寺が廃寺となり、三十三の数を合わせるために、すぐそばにある観音山普門院が禅林街の一つに数えられるようになりました。普門院は通称、山観と呼ばれ精進料理を予約すれば食べさせてくれるそうです。知らなかった……。

山観の裏の一画には、小さな西国三十三の観音様が置かれています。これは津軽を東国として東西の対を作る見立と考えられます。西国三十三観音は四国や関西の霊場の縮図、見立てで、すべてを意味する東西を巡れば全世界を巡ったことになるとの事。

普門院の院号である普門とは、観音菩薩が三十三の姿などを現わして、広く人々に救いの門を開いていることを示す意味だそうです。観音山という観音菩薩を現わす山号と普門院の院号の組合せは法華経の「観世音菩薩普門品」(いわゆる観音経)に由来するそうです。

さて、禅林街と山観が聖域であるということは、奥州藤原氏の平泉には毛越寺に浄土式庭園があることが思い出されます。津軽氏は、藤原氏の系統を引くと信じられていたので、宇治の平等院や平泉の毛越寺などを倣って弘前を浄土にしようとしたと思われます。

弘前の風水より※ 

◆歴史◆

藩祖・津軽右京太夫為信の遺命を受けて、二代藩主・越中守信牧が、高岡城(弘前城)構築を始めたのは慶長15年(1610)です。慶長16年夏には、ほとんど完成して、信牧は家中ともども堀越城から高岡城に引き移りました。入城したところ、城の南木々に覆われた当時の“重森山”が見えます。頂上に登れば、城内が丸見えなのです。永禄日記にある通り、信牧は翌年の元和元年(1615)5月から重森山を切り崩す工事に着手しました。

重森山というのは今の森町、覚仙町、茂森町一帯の事です。山を西方に切り崩して、これらの町ができました。観音堂は築城以前からここにあったわけです。

延べ5千人を越す人夫を動員する大工事だったそうです。それ以前に重森山観音堂は現在地に移しています。当時、金沢の栗の木林と呼ばれていた現在地がそれです。

この時、信牧は「長勝寺構え」を構築し、領内にあった寺院をここと、城下の各所に集めました。これが「禅林三十三カ寺」の始まりです。

延宝6年(1678)、四代藩主・信政は老朽化した観音堂を再建し、これを禅林の蘭庭院八世・存秀を別当兼務としました。また金沢山観音寺を「観音山普門庵」と改称して、蘭庭院末庵に加えています。もっとも、信政が再建した堂舎は享保3年(1718)に焼失して再び建立されたと言われているそうです。

その後、明治に入ってからは講中組織として維持されてきたが大正年間、白沢俊明住職の代に寺格を受け、普門院となっているとの事。また、当時全昌寺が海蔵寺に合併したことから普門院が、禅林三十三カ寺に加えられました。

山観の境内には、閻魔堂、身代観世音堂、稲荷堂、札納堂などがあります。また、明治22年弘前市本町の宮川利助が、西国三十三所を巡って砂を持ち帰り、建立した三十三体の観音石像が境内を一巡している。

観音堂内には聖観音像のほか、三代藩主信義の側室であり、四代藩主の生母である久祥院(菊御前)が寄進した、閻浮檀金観世音も祭られています。また、藩の抱え絵師として有名な新井晴峰が文政4年(1821)に描いた「関羽書見之図」の大きな奉納額や文久4年(1860)に寄進した絵馬などが残り、観音寺の由緒を物語っているようです。

境内は小高い丘になっています。戦時中には66本の老杉が伐り倒されたそうです。今も残っていれば、弘前でもっとも古い杉林であったに違いありません。

陸奥新報より参照抜粋

   

この津軽三十三観音霊場を巡ってみて、歴史的にも面白く、自然に密接に関わりがある事から緑豊かな場所が多く、とても気持ちが良いものです。是非皆さんも、何処か気に入った場所がありましたら、足を運んでみて下さいね!

では、最後にご詠歌を。

今迄は 親と頼みし 笈摺を ときて納める 茂森の寺

  

御拝読有難うございましたm(_ _)m

青森県弘前市大字西茂森2丁目17−4

1:久渡寺() 2:多賀神社 3:聞求寺 4:南貞院 5:十腰内観音堂 

6:湯舟観音堂 7:北浮田弘誓閣観音堂 8:日照田観音 9:見入山観音堂

10:円覚寺 11:下相野観音堂 12:蓮川観音堂 13:川倉芦野堂

14:弘誓寺観音堂 15:薄市観音堂 16:今泉観音堂 17:春日内観音堂

18:海満寺 19:義経寺 20:高野山観音堂 21:鬼泊巌屋観音堂

22:正覚寺  23:夢宅寺 24:入内観音堂 25:松倉観音堂 26:法眼寺

27:袋観音堂 28:広船観音堂 29:沖館観音堂 30:大光寺慈照閣

32:居土普門堂

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